シリーズ5 利根運河の役割と名称の移り変わり

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ページ番号 1037079 更新日  令和5年4月1日 印刷 大きな文字で印刷

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昭和18年から平成2年は、派川利根川と名前が変わってたんですよ。ここはどこかわかりますか。
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利根運河通水100年を迎えて再び名前が利根運河に戻ったそうです。時代によって名称がかわるんですね。

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利根運河は四季折々に私たちを楽しませ、自然が残る貴重な土木遺産となっています。

野田の魅力を発見!!

江戸時代、北海道や東北の物資の多くは千石船で海上を運ばれ銚子で1度陸揚げし、高瀬船に積み替え利根川を遡り関宿を経て江戸川を下って江戸に運ばれました。しかし、鬼怒川との合流地点付近で土砂が堆積するようになり、水位が下がる渇水期は船が航行できませんでした。より早く届けたい鮮魚などは船から馬に積み替え、江戸川まで運び再び船に積み替える陸路が複数ありましたが、時間がかかる上に大量輸送に適さないため、運河建設への機運が江戸時代後期からありました。明治18(1885)年の「江戸利根両河川間三ケ尾運河計画書」では、鬼怒川口から東京までの航路が3日から1日に短縮できると試算され、明治20(1887)年に利根運河設立協議会が発足し、民間事業として2年後に完成します。
開業当初は舟運で栄え、年間の通船数は最大37,600艘を数えましたが、ピークは開通の翌年で、時代は確実に鉄道や自動車の陸上交通へと移り始めていました。さらに自然災害による改修工事費も嵩み、会社だけでは維持できず、昭和17(1942)年に国有化され舟運路としての利根運河は役割を終えました。翌年には名称も「派川利根川」に変更され、利根川の水を江戸川に流す計画でしたが戦時中で工事は進まず、洪水時の河川の水を吸収する遊水池的な役割を担いました。昭和40年代になると、首都圏の急速な人口増加による水需要に応えるために、利根川の水を江戸川に流す北千葉導水路が計画されました。水不足が切迫していたことから完成までの暫定水路「野田緊急暫定導水路」として、昭和50(1975)年、34年ぶりに利根川の水が運河に流されました。平成2(1990)年には、利根運河通水100年を記念し名称が「利根運河」に戻り、平成12(2000)年の北千葉導水路の完成以後はその役割も終えました。
 

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