鈴木貫太郎年譜

ツイッターでツイート
フェイスブックでシェア

ページ番号 1032557 更新日  令和4年4月1日 印刷 大きな文字で印刷

慶応3年(1867)

和泉国久世村(現大阪府堺市)に生まれる。

明治2年(1869)
東京に移る。
明治5年(1872)
関宿に移る。久世小学校に入学。
明治10年(1877)
前橋に移る。桃井小学校に転校。
明治17年(1884)
海軍兵学校(14期)入学。
明治20年(1887)
海軍兵学校卒業、海軍少尉候補生となる。
明治27年(1894)
日清戦争おこる(~1895)旅順・威海衛攻略に水雷艇長として参加。
明治30年(1897)
海軍大学校入学。大沼とよと結婚。
明治34年(1901)
ドイツ駐在を命じられる(~1903)。
明治37年(1904)
巡洋艦日進・春日回航に成功。日露戦争おこる(~1905)。
明治38年(1905)
日本海海戦に第四駆逐隊司令として参加。
大正元年(1912)
妻とよ死去。
大正2年(1913)
海軍省人事局長となる。
大正3年(1914)
海軍次官となる。
大正4年(1915)
足立たかと結婚。
大正6年(1917)
父由哲死去。練習艦隊司令官となる。
大正7年(1918)
海軍兵学校長となる。
大正9年(1920)
第二艦隊司令長官となる。
大正10年(1921)
第三艦隊司令長官となる。
大正11年(1922)
呉鎮守府司令長官となる。
大正12年(1923)
海軍大将に昇進。
大正13年(1924)
第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官となる。
大正14年(1925)
軍令部長となる。
昭和4年(1929)
侍従長となり、枢密顧問官を兼ねる。
昭和9年(1934)
母きよ逝去。
昭和11年(1936)
二・二六事件。侍従長官邸を襲った安藤輝三陸軍大尉率いる部隊に銃撃されるも一命をとりとめる。侍従長を辞す。男爵位を授かる。
昭和19年(1944)
枢密院議長となる。
昭和20年(1945)

4月、小磯内閣総辞職により重臣会議が開催され、組閣の大命が降下する。

8月、二度の御前会議によりポツダム宣言受諾が決まる。鈴木内閣総辞職。

12月、枢密院議長に就任。

昭和21年(1946)
枢密院議長を辞任。
昭和23年(1948)
関宿の自宅にて逝去。

鈴木貫太郎伝記編纂委員会「鈴木貫太郎伝」より

ご意見をお聞かせください

質問:このページの内容は役に立ちましたか?
質問:このページの内容はわかりやすかったですか?
質問:このページは見つけやすかったですか?

このページに関するお問い合わせ

生涯学習部 生涯学習課
〒278-8550 千葉県野田市鶴奉7番地の1
電話:04-7123-1366
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。