シリーズ26 新一万円札の顔「渋沢栄一」と野田との関わり


野田の魅力を発見!!
今年の7月に20年ぶりとなる新紙幣が発行されますが、その新一万円札の顔は渋沢栄一です。渋沢は、天保11(1840)年、現在の埼玉県深谷市に生まれ、一橋慶喜(後の徳川15代将軍)に仕え、27歳の時には、慶喜の実弟(昭武)に随行し、ヨーロッパ諸国やパリ万国博覧会を視察。帰国すると日本初の合本(株式)組織を設立するなど、明治政府の官僚として新しい国づくりに邁進します。明治6(1873)年に退官した後は、民間人として約500の企業・団体、約600の教育機関や社会公共事業の設立や支援に関わり、「近代日本経済の父」と呼ばれています。
渋沢の日記によると、彼が66歳となる明治39(1906)年4月6日、観桃の名所で知られていた野田を日帰りで訪れたことが記されています。当日の行程は、髙梨兵左衛門家の邸宅、茂木七郎右衛門家の醤油工場、愛宕神社を巡ってから、座生沼に舟を3艘浮かべて宴会を催したそうです。道中の麦畑と桃の花が見事なことが綴られています。
さらなる野田との関わりは、渋沢の孫の純子と、岩倉具視のひ孫の鮫島員重の仲人を務めたのが、晩年を関宿で暮らした終戦時の総理大臣である鈴木貫太郎翁とタカ夫人でした。
鮫島の祖父・父とは海軍時代、貫太郎翁と関係があり、さらに、純子の伯母は、関宿城主だった久世家に嫁いでいたこともあり、仲人を頼まれたそうです。純子の回想録には、貫太郎翁から関宿のバターを贈られたことなども記されています。
【参考文献】野田市郷土博物館『野田の桃源郷』2021年、宮本鴨北『野田観桃記』1893年、大澤正道筆『渋沢青渕翁野田観桃記行稿本』、鮫島純子『祖父・渋沢栄一に学んだこと』2010年、渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料別巻第一日記(一)』1966年
ご意見をお聞かせください
このページに関するお問い合わせ
PR推進室
〒278-8550 千葉県野田市鶴奉7番地の1
電話:04-7199-2090
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。