シリーズ39 市制施行を機に動き出し市民協働で完成した郷土博物館

野田の魅力を発見!!シリーズ「市制施行75周年の歴史(5)」
昭和20(1945)年の終戦で、戦時体制から解放され文化活動も自由に行える社会になって多くの文化団体が生まれました。昭和21(1946)年に、各文化団体が連携し質的向上を目指すため、興風会図書館の「野田読書会」が母体となり、「野田文化協会」を設立、その中核メンバーにより昭和23(1948)年に「野田地方文化団体協議会(文協)」が発足しました。文化活動の推進と普及をスタートさせた文協は、野田市が誕生した昭和25(1950)年、郷土博物館建設を市長及び市議会議長らに陳情し、郷土博物館建設運動が始まります。
その後、文協の組織内に「郷土博物館建設促進特別委員会」を設置し、毎週1回集まって博物館の具体案を検討しながら、展示資料となる収蔵品の収集を開始しました。
また、郷土博物館の必要性を市民にアピールするため、市と共催で、「住居の歴史展」や「食生活展」を興風会館で開催します。当時、野田での発掘調査で縁のあった国学院大學の樋口清之教授と文協が、粘り強く建設運動した結果、昭和29(1954)年に市議会の議決で、市制施行記念事業として「野田市博物館設立準備委員会」が発足しました。昭和30(1955)年には市制施行5周年記念事業として「野田市郷土博物館資料展示会」が開催されるなど、郷土博物館設立の下地は、組織や資料収集、展覧会の実施などを通して内面から確固たるものになっていきました。
昭和31(1956)年、野田醤油株式会社(現在のキッコーマン株式会社)から郷土博物館建設資金として、1,000万円の寄附を受け、市の博物館建設はついに現実味を帯びることになりました。建設地も市民会館敷地内と決まり、設計は日本の近代を代表する建築家の山田守に依頼されます。野田での検討委員会に参加した山田は、委員の指摘を受けて設計案を修正し、市民会館の和風建築と調和する校倉造風をイメージした、現在の建築デザインとなりました。建築家として円熟期の山田はその数年後、京都タワービルや日本武道館を設計し誰もが知る建築物を後世に残しています。郷土博物館は市民の建設運動から9年の歳月を経て昭和34(1959)年に完成し、66年後の現在もなお、色あせることなく野田の文化を後世に伝える拠点になっています。
【参考文献】野田市教育委員会『野田市郷土博物館 資料展示会目録』1955年、郷土博物館『野田市郷土博物館35年の歩み』1994年、郷土博物館『博物館セミナーシリーズ5野田市郷土博物館の過去・現在・未来』1995年、郷土博物館『野田文化の芽ばえ』1999年、郷土博物館『今に生きる山田守の建築』2009年、郷土博物館『郷土史へのまなざし 博物館誕生ものがたり』2019年
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