シリーズ18 千葉県営軽便鉄道の建設が決まった場所

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ページ番号 1039623 更新日  令和5年11月1日 印刷 大きな文字で印刷

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昭和初期の「野田町名所案内」に掲載される門松楼の写真(興風図書館所蔵)
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明治38年の門松楼(赤丸を追記)の場所は坊山通り入口(現在は千葉興業銀行の駐車場)
道路の中心の2本の線は人車鉄道の線路です。「野田下町の一部鳥瞰図」(郷土博物館所蔵)の一部を拡大

野田の魅力を発見!!

明治41(1908)年3月に千葉県知事に就任した有吉忠一が、その年の秋、県内視察の帰りに野田町の旅館「門松楼」に宿泊しました。その夜、野田醤油醸造組合の頭取であった茂木七郎右衛門が知事を訪ねて行き、言いました。
 「一体、県庁ではこの野田の町をまるで北海道か、樺太の町のように思っておられるようである。自分等はここに永年醤油醸造業を営んでいるが、原料の小麦を運ぶにも、また食塩を運ぶにしても、また製品を市場に出すにしても、たった江戸川が1本あるだけである。実に不便なところであるにかかわらず、一向県庁の人はこれを考えてくれない」と。その時、知事は日露戦争でドイツから買い入れた機関車やレールが習志野の倉にあったのを思い出し、鉄道連隊(軍用鉄道敷設や運営を担う陸軍の部隊)に鉄道を建設させる案がひらめきました。用地買収費用5万円を野田で御用金(寄付金)として提供できるか提案したところ、野田の醸造家らが即座に承諾したことから、紆余曲折しながらも鉄道建設計画が実現に向けて動き出しました。
 計画では、線路幅(ゲージ)が狭い鉄道であったため、「ゲージが違っていたんでは困る。是非普通のもの(常磐線の線路幅)に変更して貰いたい、それでなくてはせっかく敷いて貰ってもあまり効能(常磐線と相互乗入れ)がない、どうかそうして貰いたい」と醸造家らが県庁に行ってお願いしました。知事が技師に調査させたら、20万円かかることになりました。
 この増額分を野田の醸造家たちが県債として引き受けたことから、軽便鉄道法による敷設免許第1号、そして地方自治体が経営した最初の鉄道として、明治44(1911)年5月9日千葉県営軽便鉄道柏から野田町14.7キロメートルが開通しました。この鉄道は現在の東武野田線につながっていきます。
【参考文献】有吉忠一「楽堂翁を偲びつつ」『紫国楽堂追悼号』1930年、佐藤真『野田郷土史』1980年、相浦秀也「野田線の歴史」『流山研究・におどり』第7号1988年、野田市『遠ざかる風景』1990年、柏市教育委員会『柏市史近代編』2000年

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