シリーズ24 芽吹大橋の歴史 人々の願いが現実に
野田の魅力を発見!!
河川に囲まれた野田市は、江戸時代、水運に恵まれ栄えましたが、明治時代以降、次第に河川による道路分断が陸上交通の妨げになりました。
野田周辺の利根川に架かる道路橋は、古河・栗橋間の「利根川橋」(大正13(1924)年完成)、取手・我孫子間の「大利根橋」(昭和5(1930)年完成)、関宿・境間の「境の船橋」(昭和7年完成)の3本のみでした。「船橋」は川面に並べた船の上に板を渡した構造のため、物資の大量輸送は「利根川橋」か「大利根橋」へ大きく迂回しないと利根川を渡れませんでした。このような交通条件を克服するため利根川への架橋運動が野田町で盛り上がり、昭和2年に利根架橋委員会が発足しました。しかし、渡し船で生活している船頭たちの反対や橋の位置を巡る対立から実現しませんでした。続いて昭和6年に対岸の岩井町(後の岩井市、現・茨城県坂東市)で架橋運動が起こりましたが、満州事変など軍備優先の世情で自然消滅し、3回目の架橋運動は、昭和18年の軍事橋梁計画でしたが終戦により、またもや中止になりました。4回目の架橋運動は昭和23年で、関係する町や村の賛同を得た「利根架橋期成同盟会」設立後、結成大会を開くまでに至り、さらに利根架橋をスローガンに掲げて立候補した戸邉織太郎が初代野田市長に当選すると、岩井町長と共に期成同盟会の活動を進め、半年間で国や千葉・茨城の両県へ100回近く出向くなど、国会議員、県会議員を巻き込んだ結果、茨城県が有料橋梁として工事を昭和30年に実施できることになりました。その後、昭和31年設立の日本道路公団が工事を引き継ぎ、昭和33年12月23日に芽吹大橋は開通しました。
開通式に式辞を行った岸道三(日本道路公団初代総裁)は、鈴木貫太郎内閣で総合計画局参与を務め、終戦工作に務めていた人物で、野田との縁を感じます。さらにもう一つ不思議な縁ですが、開通の同日、東京では「東京タワー」の完工式も行われていたそうです。
【参考文献】坂東市立猿島資料館『芽吹大橋物語』2015年、(社)関東建設弘済会『関東の道』1991年、岩井町教育委員会『岩井町郷土史』1962年、芽吹大橋記念刊行会『芽吹大橋の歴史』1961年、佐藤真『野田郷土史』1980年、戸邉織太郎翁追憶録刊行会『岩吉どん九十一年の生涯』1977年
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